ゲームセンター代わりの映画館

─まず、ご自身の生い立ちを教えてください。

黒部僕は1980年に東京で生まれました。父と母と姉と祖父母の6人家族です。親父はサラリーマンで、お袋は専業主婦でした。都会っ子で田舎がないこともあり、いたって普通の子どもでした。

─映画と出会ったのはいつ頃ですか。

黒部中学生の頃です。大学までエスカレーター式で進学できる私立の中学校に入学したので、受験がなくて暇なんですよね。僕の時代は放課後に寄り道しても何も言われなかったので、ゲームセンターに行くようなノリで映画館に通っていました。今はもうないですが、大井武蔵野館という映画館が好きで、そこで市川右太衛門の時代劇や『多羅尾伴内』シリーズを浴びるように見ていました。

─そこから自分でも映画をつくってみたいと思われた。

黒部中高生時代はとにかくいろいろな映画を見まくっていましたが、特に日本映画が量産された時代のプログラム・ピクチャーの熱気がすごく好きだったんです。勢いでつくっていて、展開に困ったらチャンバラを入れるみたいな(笑)。自分でもそういう、理屈めいたものではない、何だかハチャメチャでおもしろいぞ!というような映画をつくってみたいと思いました。大学は映画づくりというより映画史を学ぶ学科だったので、大学卒業後に日本映画学校に入学しました。

─だけど、映画学校卒業後は映画の道をあきらめて書店員として働いています。

黒部映画学校では、映画を撮るためにまず企画書を作る必要がありました。こういうテーマで、こういう人が出てきて、大体こういう終わり方をしますという説明が求められるんですが、僕は物事の出口までを見通したうえで企画を立てることができないんです。作品のテーマがどうであるといったことを話すのが苦手だし、撮影や録音といった技術系も不器用な自分にはとても無理だと思いました。そもそも、自分が映画に魅せられた熱気を生んでいた製作所システムも、今はないわけです。それで、映画づくりはもういいかなと思って映画の道はあきらめました。

原発事故を機に岡山へ

─その後、2011年まで書店員として働いて、2012年に岡山に移住されていますね。

黒部2011年の福島第一原発事故の影響はすごく大きかったです。当時、この映画のプロデューサーでもある妻の黒部麻子さんと同棲していたんですが、放射能汚染の不安もあり、自然災害が比較的少ないと言われる岡山に移住することを決めました。岡山に来て、まずは働かないとと思って就いたのが、精神障がいの方が地域で生活するための支援を行う施設での仕事でした。岡山に移住する際に、放射能を恐れて東京を出るなんて理解できないと言われることもありましたが、施設で出会った人たちは人の痛みをすごく理解しようとしてくれて、逆に僕のほうが彼らに助けられました。

─その後、食肉センターでアルバイトをしながら、いよいよ本作の撮影がはじまるわけですね。

黒部はい。施設では良い出会いもありましたが、最終的には職場での人間関係が悪化し、退職することになってしまいました。途方に暮れつつも、一度きりの人生なんだし、こうなったら好きなことをやろうと思って浮かんだのが、一度はあきらめた映画づくりでした。とは言え、仕事はしないといけないので食肉センターでアルバイトをはじめたんですが、そこで牛に関わったことが、ヒデさん(本作の主人公・内藤秀之さん)との出会いにもつながったと思います。

より良く生きるために、生き方を見直す

─ヒデさん以外の登場人物も魅力的でしたね。

黒部映画に登場する、関西から移住してきた田中博さんは、以前はサラリーマンとしてバリバリ働いておられた方で、そこから人生を180度切り替えて農家に転身して、しかもコメ一本で食べていこうとしていました。お金のことだけで言えば、コメ一本で食っていくのは大変だと思うんですよ。普通は儲かる野菜も育てたりするんですが、田中さんはお金ではなく、主食であるコメを選びました。田中さんも、映画の最後のほうに出てくる削蹄師の横山東さんも、自分の仕事に誇りをもっていて、そういう方たちと出会えたのは運が良かったと思います。

─ヒデさんが誇りをもってお仕事をされているから、周りにそういう方々が集まるんでしょうか。

黒部そうだと思います。正直、ヒデさんだって現金収入はそんなにないのに、田中さんが農閑期で収入がないときには、田中さんに牧場を手伝ってもらってお給料を払うわけです。ヒデさんのようにほぼ一人でやっているような小規模なところでは、なかなかできないことだと思います。ヒデさんは、人の痛みにただ共感するだけじゃなくて、実際に行動する人なんです。

一方で、多くの人はヒデさんみたいな生き方はしないですよね。生産性ばかりが求められる今の時代では不器用な生き方だと思います。僕だってヒデさんと同じようにできるかと言われたら分からない。だけど、できるできないはともかく、日々生きていくのが大変な時代において、生き方を見直さないと本当に立ち行かなくなると思うんです。自然って過酷な印象があると思いますが、実は自然の中には笑いもあるし、ゆったりした感覚もあります。誰だって、より良く生きたいじゃないですか。人間が生きるのに必要なことを大事にする時代が、必ずくると思うので、映画を通してヒデさんたちのような生き方を伝えられたらと思います。

映画づくりを通して生きる力を得る

─紆余曲折あって、一度はあきらめた映画の道に今立っておられます。あらためて、監督にとって映画とはどのようなものでしょうか。

黒部自分にとって、映画の撮影中は生きる気力が回復する時間でした。一通り撮影を終えた段階で僕が編集したものを妻に見せたところ、妻が企画書をつくって(配給会社の)東風さんにかけあってくれました。それがきっかけで東風さんに編集の秦岳志さんや、整音の川上拓也さんを紹介していただいて、映画として完成させることができました。東風さんが日本原という、埋もれた場所に関心を持ってくれたのも素敵なことだと思いましたし、妻が映画を通してヒデさんや(ヒデさんの妻の)早苗さんを好きになって、映画として完成させるために動いてくれたのを見て、映画の力を感じました。映画は人とのつながりを生む素晴らしいものだと思います。

─これからも映画をつくりつづけますか。

黒部映画をつくるにあたってテーマに出会うことも大事だと思いますが、僕は今後もテーマありきで映画をつくることはできないと思います。今、90歳を超えた、身寄りのない独居老人の方の任意後見業務のアルバイトをしていて、身の回りのお世話をしながらカメラを回しているんですが、それも映画をつくるというよりは、まずは完全な孤独の空間というものに驚き、そこに僕が入らせてもらって一緒に過ごす時間を残しておきたいという思いで撮影しています。今回の『日本原 牛と人の大地』も、もともと明確なビジョンを持って撮影していたわけじゃなく、自分がいいと思った人や動物を追いかけ、それが結果として劇場公開につながりました。今撮っているものも、いつか、形にできたらいいなと思っています。観客のみなさんにも、ヒデさんや早苗さんたちを知ってもらって、一緒に考えたり感じてもらえたりしたら嬉しいです。

取材・構成=木村奈緒
『日本原 牛と人の大地』公式ホームページはこちら