人の命を守る医者。その医者になるため、医学生となったヒデさんがどうして牛飼いに?
餌をやり、牛乳を採り、糞尿は近所の田畑に無料で撒く。ヒデさんたちが育てた牛を食べて私たちは生きている。
耕作権を持つ演習場に入ろうとする息子のダイチさんを自衛隊員が止めた。
抗議するダイチさんの質問に、言い淀み答えられない自衛隊員。私が自衛隊員だったら…やっぱり答えられません。
牛飼いの秀さんは、より実践的な形で青年時代の夢を叶えた。それは医者になることではなく、病を得た人の力になるという願い。地位や名誉、見せかけとは無縁の、いのちへの敬慕と研ぎ澄まされた信念。日本という名の平原に光り輝く一点の星。
主人公ヒデさんの次男・陽さんの繊細なアンテナは本能的に暴力を嫌う。「なんでお父さんは闘うの?」。おそらく陽さんが幼少期に抱えこみ、心の中でこんがらがってしまったそんな気持ちに触れて、黒部監督は撮影をはじめたのではないか。だから、映画全体が優しい。
初めて映画を撮ろうとした作り手が、たぶんそうとは知らずに家庭用カメラを向けてしまったのは、戦後ニッポンの矛盾が凝縮したような田舎町。
その理解しがたい現実の前に、作り手は、なすすべもなく立ち尽くす。
岡山出身です。山の牛乳は本当に美味しかったです。素朴で温厚な奈義町出身の知り合いもいました。が、日本原のことは全く知りませんでした。おおらかな山の暮らしの中に、個人と社会、人間と人間、動物と人間の間の矛盾、欺瞞、暴力を観ました。共生・共存の可能性について、特別出演の(?!)山本先生と芳子さんに語っていただきたいなあ。
医学部を中退し、大きな力に揺るぎなく抗いながら、牛飼いの生活を50年。偉ぶらず、必要で大切なことに取り組み続ける内藤さんの姿勢は、聖人のようであり、えらくパンクなようでもありました。自分が大尊敬する精神科医が登場されたのには驚いたけど、地味で地道な試みを続ける強さのある人同士は共鳴するもんなんだなぁと納得しました。
農はどうしてなのか戦争と近い。
「守る」ということを前に、あの「柵」を前に、あっちとこっちでなにが違うんだろう。
日本原と人と牛と稲とカメラに呼ばれた言葉が、直接僕に問いかけてきた。
平和への願い。悲しみという軸。
「効率良くスマートに」とは真逆の生き方の記録で、目立つイシューもありません。ただ、青春期の挫折後、権力への抵抗を牛飼いで続ける被写体と、あくまで自己流の撮影と編集を貫く監督、この両者の正直さが、都会でレトリックを弄しながら生きる僕にとても心地良く響いたのです。
個人、共同体、市場、そして国家。画面に映し出される日本原の風景やヒデさんたちの内藤牧場の背後には、戦後日本という時間のなかで複雑に絡み合った歴史がある。個人や共同体が抱える物語・生業を、国家が圧し潰そうとする抑圧的な光景が、映画のなかに収められている。
しかし、そんな背景の下に登場する人々が、良い意味で緊張感の無い視線をカメラに投げかける場面が頻出するのがユニークである。どことなくユーモラスで無邪気な映画感覚に随所で「フフッ」と笑わされるうち、彼ら彼女らが住む日本原を監督と一緒に歩いているような気持ちに、いつの間にかなっていた。
具体的に「そこ」で生きている/いた人に、草や花や木に、動物たちに、まずは率直に触れてみることのかけがえのなさと、そして何より楽しさこそが、この映画には生まれていると思う。
この映画に登場するのはみんなどこか不器用で、でも濃厚に命を輝かせている人間や牛やサツマイモ。さながら味わい深い命の低温殺菌牛乳のような作品だ。
結局、長く基地反対運動を続けられるのは人間力豊かな人たちだけなんだなぁと、辺野古と日本原闘争を重ねてしみじみ思う。
秀さん一家の何気ない日常が命の讃歌となり、地域に、人々の心にゆっくりと真っ当な楔を打ち込んでいく。真っ当とは、誰の暮らしも軍事基地に蹂躙されないという当たり前のこと。きっとここには、支援のつもりで行った側が導かれ、整ってしまうような磁場がある。大スクリーンでそのシャワーを浴びてみたい。
三上智恵
映画監督、ジャーナリスト